私が感じられるのは「運」というもの自体が解りません。
いいも悪いも、事故も出来事も、どうやら起きたこと自体には意味がないようです。
要するに、どのハプニングも中立的な現象ということです。
どんな意味を持たせるか?によってその出来事から学ぶことが決まるようです。
わたしのケース
私も延べ4か月の間に3回入院し、6回の手術を受けて何度も死にかけました。
その間色々な問題が生じて、あらゆるドクター達と意見交換をし、会議をし、主人が必至に資料を作りました。
病院の規約とどうしても合わないときは、病院の規約の隙間をくぐりぬけて私の想いを叶えたこともありました。
4か月の間に10回以上の会議があったと思います。
手術翌日に自分に合わない何かが起きている時には、発言し変えてもらったこともありました。
良い流れに変化させた実績
なぜこんなことが出来たのでしょうか?
私には気持ちを一緒に出来る主人がいたからです。
30年近く人生を共にしてきて、トラブルと呼ばれることも二人で集中してこれでもか!と証拠や書類・嘆願書を書き、お願いをして良い流れに変えて来た実績が山ほどあるんです。
ポジティブな言葉
もちろん「なぜわたしがこんなひどい目に合うの?」と毎日つぶやいていましたよ。
病院側も前例がないとのことで、毎日みんなが手探りのような日々でした。
主人とは毎日病室から電話をして、「つらいね。でも流れが悪い方向に進んでいる訳じゃないと思うよ」と励まされ、お見舞いに来て下さった長年の恩師には「悪いモノは去れ!という気力が大切よ」と背中をたたかれ、うつむきそうなたびにポジティブな言葉が届きました。
やっと退院した矢先にアクシデントがまた起こりました。そして長年の薬の副作用で体重が20㎏も増えてしまいました。が、ここから何を学ぶのかな?と痛みをこらえながら興味津々です。
非日常のミラクルワールド
わたしの例はおそらく多くの方々が「不運な出来事」と捉えると思います。
楽しい日々ではありませんでしたが、非日常のミラクルワールドでした。
そう、ディズニーランドを超えるだけの日々の連続でした。
この体験で主人がどれだけ大切な人か、毎日何十人の人が私の回復に関わってくれたのか、友達のラインに励まされて元気をもらえたこと、そして悲しんでいるわたしより、よっぽど重症で命の瀬戸際にいる人がいるんだと気づかされたり、貴重な体験でした。
だから「不運な出来事」ではなく「まれにみる貴重な体験」で、「幸運だったね」と誰からもそう認識されています。
運は作るもの
「運」は作っていくものだと思いますよ。
後で解ったことですが、私の症例は世界中で4番目の出来事でした。